本や映画には読者や視聴者の心を満たすこと以外にも、役割を果たすことがあります。
その1つに、文字や映像を通じて製作者側が読者や視聴者にメッセージを伝えることです。
これは本や映画だけでなく、ゲームにも当てはまる場合があります。
そして、このメッセージが強いゲームは概して内容が衝撃的で記憶に残るものが多いです。
本記事では衝撃的、異色、斬新といった言葉が似合う作品『ライブ・ア・ライブ』がプレイヤーに伝えたかった5つのメッセ―ジとゲームを通じてプレイヤーに気づいてほしかったことについてお伝えします。
ライブ・ア・ライブは9つのシナリオで構成【再確認】
ライブ・ア・ライブについて忘れてしまっている人もいると思いますので簡単におさらいです。
ライブ・ア・ライブでは計9つのシナリオがあります。
7シナリオ
- 原始編
- 現代編
- 近未来編
- 西部編
- 幕末編
- 功夫編
- SF編
1シナリオ
- 中世編
中世編は7シナリオクリア後にプレイ可能。
締めシナリオ
- 最終編
中世編クリア後にプレイ可能。
作品を知らない方、記憶が曖昧な方は下記記事を参照してください。
要(かなめ)となる中世編について、しっかり書いておきました。
最初に選択できる7つのシナリオは、それぞれ独立したストーリーです。
各ストーリーの共通点として、信頼や絆といった王道RPG作品では欠かせない要素が全面に出されており、定番のハッピーエンドで終わります。
王道ながら名場面は多いので侮るなかれ!
7つのシナリオを終えると、中世編という8つ目のシナリオに進むことができます。
この中世編こそがライブ・ア・ライブの要であり、中世シナリオに製作者側が最も伝えたいメッセージが埋め込まれています。
中世編も、最初は7つのシナリオと同じ雰囲気(むしろ更なる王道)ですが、後半から想定の斜め上を突き進みます。
中世編の主人公は今でも『RPGで最も不幸な主人公』として名が挙がります。
最終編は締めくくりですが、最終シナリオでも様々なメッセージを受け取ることができます。
ライブ・ア・ライブのメッセージ①:人は誰しも魔王になりえる
だが・・・覚えておくがいい・・・
誰しもが魔王になりえる事を・・・
『憎しみ』がある限り・・・いつの世も・・・
本作品でプレイヤーに最も伝えたかったメッセージです。
最も伝えたかったセリフだからこそ、繰り返し忠告しています。
中世編開始時の主人公オルステッドからは、悪の片鱗も感じられません。
それどころか攫われた姫を助けることを一人で決意し旅立つ人格者です。
オルステッドは人間不信だったハッシュが最期に託した人間であったことから、典型的な勇者といえます。
これまでの7シナリオの集大成の主人公に最もふさわしい感じです。
初プレイ時は、ドラクエ4のようにオルステッドの元に他の主人公達が導かれ、巨悪な敵を倒すのだろうと思った人もいたでしょう。
しかしながら、衝撃的な仕打ちを受けた勇者オルステッドは、なんと『魔王』になる宣言をします。
勇者の風格がある主人公でさえ、歯車が狂ってしまえば『魔王』に堕ちてしまう。(ここではあえて「正義」の対義語である「悪」に堕ちるとは言いません)
ゲームをクリアすれば、最初の7シナリオは中世編との対比のために造られたことがわかります。
また歯車を狂わすのは『オディオ』(ラテン語で憎しみ)であることもわかります。
上記タイトル画面には2つの意味が込められています。
1つ目は、タイトルの『LIVE」がひっくり返って『EVIL』になっていること。
これは、魔王(EVIL)に成りえる可能性は特殊な環境下でなく、日常の生活(LIVE)に潜んでいることを意味します。
2つ目は、このタイトルの場所。
この場所は中世編のルクレチア城が正面に見える場所。
すなわち魔王が棲む言われている東の山。
プレイヤーはゲーム開始時に、必ずこの『魔王が見る風景』を同様に見ています。
これは、プレイヤーも決して『魔王に成りえる』は他人事ではないことを意味します。
本作品において7シナリオの主人公達は、最後まで物事がうまく進んだため、たまたま魔王にならなかっただけです。
SF編では後半に主人公が疑われる場面がありますが、作り主が疑心暗鬼の中でも主人公を信じ切ったため事態は悪化しませんでした。
もし、あの時に保身のために主人公を裏切ったら、シナリオボス同様に人口知能を搭載した主人公は『人間を排除すべき存在』と結論づけたかもしれません。
ライブ・ア・ライブのメッセージ②:魔王など···どこにもいはしなかった···
私には‥‥もう 何も残されてはいない‥‥
帰る所も‥‥愛する人も‥‥信じるものさえも‥‥
魔王など‥‥どこにも いはしなかった‥‥
ならば‥‥この私が 魔王となり‥‥
自分勝手な人間達に そのおろかさを 教えてやる‥‥
上記セリフも1つ目のセリフと関連しています。
どこにもいなかった魔王とは単に世界を滅ぼそうとしている典型的な倒すべき存在のこと。
オルステッドが宣言した『魔王』とは1つ目のセリフの通り、何かのきっかけで人が成り果てた存在のこと。
すなわち『魔王』という存在は最初から存在するわけでなく、何かのきっかけ(本作品では憎しみ)により成り果てた存在というわけです。
ライブ・ア・ライブでは、そのような魔王にトドメを刺すべきか問われる場面もあります。
ラスボス撃破後にトドメを刺すか選択できるのは、作品から発するメッセージに対しプレイヤーがどのような結論を出すのか問うためです。
ドラクエ4のピサロはロザリーを嬲り殺されたことよる『憎しみ』から、全てを滅ぼそうとする怪物のような存在になったよね。
ピサロは人間は滅ぼすつもりでしたが、ロザリーヒルの様子やロザリーを人間から救った経緯から完全な悪とはいえないキャラでした。
ちなみに、「私には・・・もう・・・」がオルステッドの初セリフとなります。
オルステッドはドラクエ型主人公で中世編シナリオで喋ることはなかったのですが、勇者を辞めたこと(=魔王に成ったこと)で喋ることを製作者側に許されたわけです。
ライブ・ア・ライブのメッセージ③:他力本願で幸せだけは求める者を救う価値はあるのか
君達は英雄になった・・・
しかし他の人間達は一体何をした・・・助けをこうばかりだったろう・・・
自らを危険にさらさないで他力本願にしあわせだけは求める・・・
そんな人間なぞ救うに値しないという事・・・
オルステッドが7シナリオの主人公に問いかけた1つ目の内容。
姫が攫われた後、姫を助けにいくオルステッドの行動を周りは『勇者』と称賛しますが、称賛だけで王も兵士も街人も何も具体的な行動をせず・・・
旅のなかで過剰な『他力本願』に嫌気が差し人との距離を置くようになった、かつての勇者ハッシュと仲間のウラヌスに出会います。
ハッシュやウラヌスの言動から『他力本願』を目の当たりにするだけでも、距離を置きたくなるぐらいです。
『他力本願』で何も行動しなかった奴らが手のひらを返した経緯を鑑みれば、オルステッドの「しかし他の人間達は一体何をした・・・助けをこうばかりだったろう・・」のセリフは至極当然です。
手のひらを返すまではなくとも、『他力本願』は王道RPGはで当たり前のように見受けられます。
名作ドラクエ3を思い浮かべてみましょう。
16歳になった主人公は旅立ちの許可を得るため王のところに行くと、なぜか魔王バラモス退治を依頼されます。
しかしながら、援助となる支給物は「ひのきの棒」「こん棒」「旅人の服」「お金50G」・・・
16歳の子に魔王討伐を託すも協力的な行動する者も見当たらない(母親が旅立ち後も自宅を宿屋代わりに使わせてくれるぐらい)
FC版ではお金を預けると預け手数料まで取る始末。
一応、ただの子でなく勇者の子みたいですが、酷い仕打ちです。せめて城内の兵と同装備の提供や城の宝物庫ぐらいは解放してあげましょうよ。
現実世界で例えるなら、高校1年生の子に出国を許可する代わりに中東の過激派テロリストを壊滅させてこい!と言っているようなものです。
それだけでも酷なのに、資金や人員の援助もなし・・・
このように周りのモブや非戦闘キャラが助けを乞う場面はRPGゲームでは当たり前ですが、改めて問われると、このような者達を命を懸けて助けるべきなのか考えさせられます。
もう1つ、オルステッドが上記セリフを通じて伝えたいことがあります。
他力本願であるがゆえに簡単に手の平を返すこと。
実際にオルステッドは皆に頼られる『勇者』から、一夜にして『魔王』として恐れられる存在になります。
オルステッドの同行者であり、かつての勇者ハッシュの仲間であったウラヌスですら、オルステッドと一緒にいただけで魔王の仲間と疑われ拷問を受けます。
『他力本願』の人たちは『自力』の人たちと比較して自分の言動に責任を感じにくく、簡単に流されやすいのです。
そして、相手に期待する半面、相手がその期待を下回ると見下したり排除しようとしたりします。
現実世界でも、スポーツ選手や芸能人をマスコミが中心になって持ち上げておきながら、期待を下回ってくるとボロクソに言われたりしてるよね。
中世編も同様で『他力本願』な人たちは当初はオルステッドを『勇者』として持ち上げましたが、姫を救えず仲間2名を失い帰ってきたオスルテッドに不満や落胆があったのでしょう。
そのため、王が倒れたときに駆け付けた兵士や大臣は、オルステッドの言い分を一切聞かないばかりか『魔王』呼ばわりをしてしまったわけです。
城内の者だけでなく街の人や近隣の村人までもが、噂話を聞いただけで完全に魔王扱いしてしまいます。
こうしてオルステッドの評価は一夜にして地に落ちます。
もしウラヌスのように自ら積極的に関与している『自力』の者達やオルステッドを本当に信頼している者が多ければ、一夜にて評価が変わるようなことはなかったはずです。
ライブ・ア・ライブのメッセージ④:大切なものを守るためなら他者を傷つけてよいのか
君達は一体 何のために戦ってきたのだ・・・?
さいわい 君達は戦いに勝って大切なものを手に入れた・・・
だが それらも しょせん一方的な欲望ではないのか?
自分にとっての大切なもの・・・
それを守るためならば 他者を傷つけていいのか・・・
オルステッドが7シナリオの主人公に問いかけた2つ目の内容。
親友ストレイボウは己の自尊心(自分にとって大切なもの)を取り戻すために、オルステッドを絶望的な状況に追い込みました。
そんな絶望的な状況でも婚約者アリシアを信じて助けに行ったオルステッド。
それにも関わらずアリシアは負けたストレイボウの行為を擁護したうえ、面前で自殺してオルステッドの心を致命的な傷を負わせました。
そんな2人の一方的な欲望(言い分)によって、オルステッドは『魔王』となる決意をしました。
ドラクエなどの序盤イベントで、洞窟から溢れた魔物を倒してくれという依頼を見受けられます。
街を救う、世界を救うといった、人間にとって大切なものを守るため、魔物を一方的に殲滅して良いのか?
『大切なものを守る』大義名分のもと敵を倒す行為も、その敵からみれば一方的な欲望によって傷を負わせてくる脅威でしかありません。
大切なものを守る大義名分のもと敵を撃破する場面はゲームや漫画でよく使われますが、これは他者の都合を無視した一方的な欲望に過ぎません。
7シナリオにおいては、原始編のシナリオボスである『恐竜お~でぃお~』について考えさせられます。
原始編ではヒロインが敵対部族の手によって恐竜への生贄にされそうになり、最後には敵部族と協力して恐竜を倒します。
これも自分の『大切なもの(ヒロイン)』を守るため、他者(恐竜)を傷つける行為と言えます。
恐竜は別の視点で捉えれば、純粋に本能のまま厳しい大自然の中を生き抜いてきただけの存在です。
そんな恐竜を己の欲望のために倒し、何の罪悪感もなくハッピーエンドを迎えて良いのか?
罪悪感がないのは『大切なものを守る』という欲望を満たしたことと、倒した恐竜を『悪』と決めつけたからだよ。
ライブ・ア・ライブのメッセージ⑤:勝った者こそが正義なのだ!
口おしかろう・・・お前達とて・・・自分の欲望・・・感情のままに・・・素直に行動していただけなのだから・・・
ただ・・・お前達は敗者ゆえに悪にされてしまった・・・
そう・・・勝った者こそが 正義なのだ!
歴史とは勝者の歴史なのだ!!
敗者には・・・明日すらもないッ!!
上記セリフの真意は4つ目の『大切なものを守るためなら・・・』と関連しています。
『大切なものを守るため』という己の欲望のため、他者を傷つけ勝利し『正義』と見なされた7シナリオの主人公。
一方、素直に欲望に従っていたのに『悪者』にされたシナリオボス。
どちらも欲望に基づいた行動でしたが、主人公は『正義』、ボスは『悪』として表現されています。
違いは何だったのか・・・
勝敗です!
どちらも欲望のために戦っていますが、シナリオボスは敗者ゆえに『悪』となったのです。
素直に欲望に従っていたが敗けたために『悪』とされたシナリオボスに、魔王オルステッドは憎しみの力を与え、7シナリオの主人公を倒し、歴史を変えるという結論に達します。
ライブ・ア・ライブの凄いところは、本当にプレイヤーがこれまでのシナリオボスを操作して、シナリオボス戦の直前の過去に戻り、主人公達を倒して歴史を修正していくところだよ。
上記セリフは「最後に勝つのは正しい者である」という、勧善懲悪の作品に対するアンチテーゼと呼べるメッセージです。
正義だから勝つのではなく勝ったから正義なのです。
この真理は漫画ワンピースでも紹介されています。。
ワンピースにおいても、単純に海賊が悪、海軍が正義ではありません。
7シナリオにおいてはSF編のシナリオボスであるOD-10について考えさせられます。
OD-10は民間輸送船コギトエルゴスム号において、少数のスタッフでも安全な航行が行えるよう管理を任された人口知能を搭載したメインコンピューター。
しかしながら、人間の一貫しない行動を監視し続ける内に矛盾を感じ始めます。
船内の調和を乱すことで安全な航行が確保できないと判断したOD-10は、船内の設備を利用して船内の調和を乱す人間を排除していきます。
言い換えれば、大事なもの(安全な航行)を守るため、他者(船員)を傷つける判断を下したわけです。
主人公も大事なもの(船員)を守るため、他者(OD-10)を傷つける(破壊する)判断を下したわけです。
ひょっとしたら、後の歴史ではODー10の導いた答えが正解だったかもしれませんが、主人公に敗けたために悪のレッテルを貼られ歴史から姿を消してしまいました。
ライブ・ア・ライブのメッセージ:まとめ
魔王とは最初から存在するものでなく、憎しみや他力本願の者たちにより生み出されるもの。
そして、その生み出された魔王は戦いに敗れることで『悪』と認定されること。
これがライブ・ア・ライブの大まかなメッセージです。
これらのメッセージから学ぶことは、物事を中立な視点でみる重要性です。
ライブ・ア・ライブに複数のエンディングがあるのは、様々な視点からプレイしてほしい製作者側の表れです。
話はゲームから逸れますが、近代史においても第二次世界大戦で敗北したナチスは『絶対的な悪』と認定され、議論すら許されない雰囲気があります。(ドイツではヒトラーやナチスを礼賛したり讃美したりすることは犯罪)
しかし大事なことはナチスは悪と思考停止するのでなく、
- 何故ユダヤ人を敵視したのか
- 当時のドイツ国民や周辺諸国はユダヤ人に対しどのように評価していたのか
- 他力本願な民衆はナチスをどう評価していたのか
- ヒトラーはなぜ英雄視されていたのか
上記のように視野を広げ中立な視点で捉えることです。
ライブ・ア・ライブではRPGの常識ともいえる『敵=悪』という部分にあえて問いたことも、異色のゲームとして名高い作品にランクインした要素の1つです。
ライブ・ア・ライブの真理は子どもにはやや難しく、大人になって初めて気づく部分もあるため、子どもの頃にしかプレイされていない方は、ぜひりめリメイク版をプレイして新しい発見をしてみてください。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
リメイク版では映像はHD-2Dを採用しており原作ファンからも好評。キャラボイスも入っているため新鮮な気持ちでプレイできます。